周来友ブログ

周来友オフィシャルブログ

満州事変から89年目、過ちを繰り返さないために

9月18日と言えば、日本では何を思い浮かべるでしょうか?中国人にとっては歴史的な屈辱的の日として記憶されています。1931年9月18日、現在の中国遼寧省瀋陽市で当時の日本軍が自ら南満州鉄道を爆破し、これをきっかけに中国東北部全域を占領した事件、いわゆる満州事変が起こったのです。日本軍は中華民国によって爆破されたと主張し、軍事衝突へと発展。その結果、日本は1932年に満州国を樹立し終戦を迎える13年間もの間、中国に日本軍が支配する国家が存在することとなったのです。
 
《大連や旅順などには当時、多くの日本人が利用していた満鉄の一部も残っている。写真は旅順駅》

こうした歴史的出来事から、9月18日は中国にとっては特別な意味を持つ日でもあるのです。満州事変から89年目となった昨日、中国各地では満州事変によって犠牲になった人々を哀悼するため、サイレンが鳴らされました。こうした中、南京市の歴史研究機関が戦後初めて、日中戦争中の日本軍による爆撃の様子について情報を公開しました。
 
初めて公開された歴史資料によると、日中戦争が激しを増していた1937年8月15日、日本軍の4機の爆撃機が上海からほど近い無錫市を通過し、南京まで飛行して来たと伝えています。さらにその後、南京ではこの4機による無差別爆撃が行われ、4ヶ月に渡り複数回の爆撃が行われ、合わせて約300回もの空襲警報が鳴らされていたのです。
 
日中戦争時の中国における空襲警報については、これまで南京市では詳しい研究が行われておらず、今回の資料の公開で当時の空襲警報の状況も分かってきました。当時の中国国内では、人間の目視などによる監視が一般的だったため、天候の影響などを受けやすく、日本軍の爆撃機が爆撃を開始してからようやく空襲警報が鳴らされることも多々あり、爆撃による被害が拡大してしまったと分析されています。
 
1938年から開始された重慶市に対する日本軍による大規模爆撃でも、最終的には無差別爆撃が行われました。山に囲まれた重慶は地形的に霧が多く発生するため、爆撃機の機関士は軍事基地などを見定めることが出来ず、結果的に無差別爆撃へと発展してしまいました。また南京市同様、霧の影響で空襲警報が遅れ犠牲者も拡大していったのでしょう。

《日本軍による爆撃を避けるために重慶には多くの防空壕が作られ、現在防空壕は飲食店となっている》
 
一方、中国に甚大な被害をもたらした日本も、第二次世界大戦で、米軍の空襲や沖縄地上戦によって数多くの命が失われました。戦争の恐ろしさを後世に伝えていくためにも、今後日本と中国などの歴史研究機関による中立的な共同歴史調査などが行われ、日中戦争の共通認識が日中両国民の間で持てる時代が来ることを願っています。